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陰陽師・賀茂女(かもめ)卑弥呼と賢者の石/八咫烏が造った国・邪馬台国へ
 
1.邪馬台国と「魏志倭人伝」/明々白々を隠蔽する『記紀』とアカデミズム
 「邪馬台国」(やまとこく)が謎になっているのは、海外の史書に記録があるにもかかわらず、日本正史として認定される『記紀』(『古事記』・『日本書紀』)にその明確な記述のない事が大きな要因である。
  邪馬台国の記載があることで有名なのが、中国の史書「魏志倭人伝」である。
  「魏志倭人伝」は、正確には『三国志』の中の「魏書」の「東夷伝」のさらに一項目である「倭人(わじん)」の条を指す。
  『三国志』は、3世紀の後半に中国で書かれた史書である。魏、呉、蜀の三国時代を扱い、諸葛孔明、「赤壁の戦い」(レッドクリフ)等で有名なあの『三国志』の中の記述である。
 つまり、「邪馬台国」の時代というのは、史書としての記録の残る時代の歴史であるという事だ。中近東この時代の200年ほど前にイエス・キリストが活躍しており、やはり聖書などが残されている。世界的に見ても、「邪馬台国」が謎になっていること自体が不思議なくらい、文明化された時代の話だということである。
  「魏書」の400年ほど後に編纂された『記紀』に記載がないこと自体が不自然なのである。 『記紀』自体に記されているように当時、各氏族の間に史書が伝わっていたにもかかわらずである。やはり、「銅鐸(どうたく)」と同様に『記紀』が何らかの事情で「邪馬台国」を意図的に隠匿した可能性が高いという事だ。
  一方で、未だに中国の史書『三国志』にある「魏志倭人伝」からは「邪馬台国」の謎は解明できていない。
  一体、それはなぜなのか。
  改めて、中国の史書「魏志倭人伝」を検証してみる。
 「魏志倭人伝」、すなわち『三国志』「魏書」東夷伝・倭人の条の資料となっているのは、当時、魏(220~265年)の出先機関があった帯方郡(たいほうぐん・現在の韓国ソウルの北方)の使者が、何度か「倭人」のいる九州北部あたりに行って、そこの伊都国(いとこく)に滞在した時の報告が主なものである。
  時期は、239年から248年までの9年間である。報告書は帯方郡から魏(ぎ)の首都である洛陽(らくよう)の政府に送られ、そこに保存されていた。
  それらを参考資料として、魚豢(ぎょかん)という晋(しん・265~420年)の史官が『魏略(ぎりゃく)』を書いた。そして、その『魏略』を参考文献として、『三国志』の編纂者である、陳寿(ちんじゅ・?~297年)が「魏志倭人伝」(「魏書」「東夷伝」倭人の条)を書いたのである。
  つまり、「魏志倭人伝」の作者である陳寿は、「邪馬台国」へ「行ったことがなかった」のである。旅行ガイドブックを引用して記載したようなものである。
  前述のように、原典になっている報告書は、帯方郡にいた使者が40年ほど前に見聞きしたものである。しかもその使者も、九州北部に滞在していたに過ぎず、卑弥呼がいた邪馬台国の都には行っていないのである。
  元の資料自体が人に聞いた話をまとめたに過ぎないという事だ。
  これらの事実は、後世のマルコ・ポーロの『東方見聞録』に記載される、黄金の国ジパングのことを思い出せば、概ね想像がつくかと思われる。
  さらには、現在我々が目にする『三国志』であるが、当然ながら原本ではない。現在の本は、刊本(かんぽん=出版本・印刷複製本)の『三国志』としては一番古い、南宋(なんそう)の紹興本(しょうこうぼん・12世紀前半)に従ったものである。だが、この紹興本がクセモノなのである。
  3世紀に書かれた「魏志倭人伝」の原本はもちろん残っていない。原本から何度も書き写されて伝えられ、12世紀の木版本(もくはんぼん)に至ったものである。その間およそ800年以上。それほどの間には、書き誤りや書き落としがあったものと考えられる。
  刊本としては12世紀の紹興本が最古ではあるのだが、3世紀の原本に近いとはいいがたいのである。
  つまり、現在、邪馬台国研究の対象となっている「魏志倭人伝」(『三国志』「魏書」東夷伝・倭人の条)の記載が、伊都国に9年間滞在していた、帯方郡の使者が聞いてきた報告書と完全に一致すると考えること自体が間違いの元であるという事だ。
  実際、「魏志倭人伝」をよく読むと、曖昧な記述が多く具体的な事実を掴(つか)みづらい部分が散見される。また所々に文章の通じない箇所もある。一つの文章の次に全く別な流れの文章が唐突に現れる箇所や、文章と文章とのつながりが不自然な箇所がある。
  そのような事から、前述の帯方郡の使者の報告書だけでなく、別な資料が混入しているという説もある。そして文章の通じないところや、つながりが不自然な箇所は、筆写する時に文字が脱落したと疑われる箇所もある。
  代表的な例としては、「以て(もって)卑弥呼死す」主語に当たる章句がない。
  しかも、「魏志倭人伝」の全文は2000字にも足りないほど短いのである。2000字というと、A4ワープロ1枚(40字×40行)と10行程度である。
  いろいろと述べてきたが、要は「魏志倭人伝」の記載を鵜呑みにしていると、邪馬台国の謎はいつになっても解ける訳がないという事である。
  事実、「魏志倭人伝」の記述通りに邪馬台国の場所を求めると、南方の海中に沈んだ事になってしまうのである。邪馬台国論争は、九州説にせよ、大和説にせよ、誤字脱字を前提に、自説に都合の良いように解釈し直しているのが実情だったのである。
 
2.「魏志倭人伝」は空間軸を放棄した書物/「万二千余里」は単に「遙かに遠い」ことを示すだけの文字!
 「魏志倭人伝」には、帯方郡から女王国(邪馬台国)までの距離は「万二千余里」と記されている。多くの研究者は、まじめにこの距離から邪馬台国の場所を求めようとする。
しかし、『三国志』の他の箇所を検証すると、「万二千余里」は、実数ではなく、中国の直轄地ではない国までの距離を意味する観念的数字である事が確認できる。
  「遙かに遠い」という事を表す数字であって実数ではない。
  現存する中国の「万里の長城」の距離が「万里」でないのと同じである。
  「魏志倭人伝」の記載がある、『三国志』「魏書」の「鮮卑伝(せんぴでん)」には、「東西は『万二千余里』、南北は七千余里」と記載がある。
  「万二千余里」は、「魏志倭人伝」に記される、帯方郡から邪馬台国までの距離と同じ。さらに「七千余里」は「魏志倭人伝」に記される、都から朝鮮半島南部にある倭の狗邪韓国(くやかんこく)までの距離と同じだ。「魏志鮮卑伝」に記載がある、鮮卑は東はシベリアから西は蒙古の端まで、満州を含む広大な領域であったという事は既に確認されている。
  地図を見るまでもなく、いかに『三国志』に記載されている距離が実際の距離とかけ離れているかという事は、一目瞭然である。
  『万二千余里』が、実数値でなく「遙かに遠い」という意味だという事実は、『三国志』以外の中国の史書でも確認する事ができる。
  『漢書(かんじょ)』「西域伝(せいいきでん)」に次のような記載がある。
  「罽賓国(けいひんこく)。王は循鮮城に治す。長安を去る『万二千里』にある。」
  「鳥弋山離国(うよくさんりこく)。王は長安を去る『万二千余里』にある。」
  「安息国(あんそくこく)。王は番兜城に治す。長安を去る『万一千六百里』にある。」
  「大月氏国(だいげつしこく)。監氏城に治す。長安を去る『万一千六百里』にある。」
  「康居国(こうきょこく)。王は冬に楽越匿地に治し、卑闐城に到る。長安を去る『万二千三百里』にある。」
  「大苑国(だいえんこく)。王は貴山城に治す。長安を去る『万二千五百里』にある。」
  そろって約「万二千余里」が並ぶ。
  これらの国々については、邪馬台国とは違って現在その場所が特定されている。
罽賓国(けいひんこく)はカシミール、鳥弋山離国(うよくさんりこく)はパルティアの東のアレキサンドリア、安息国(あんそくこく)はパルティア(=ペルシャ)、大月氏国(だいげつしこく)はパクトリア(=アフガニスタン)、康居国(こうきょこく)はロシアのキルギス、大苑国(だいえんこく)はフェルガーナ(ロシアのタシケント地方)である。
  現在の正確な地図で確認するまでもなく、それぞれ離距離は全く異なる。どのように計算しても、どのように都合よく解釈しても、それらの距離はそろって約「万二千余里」にはならない。
  邪馬台国だけ、都合よく「万二千余里」が正しい数字である訳がない。
  繰り返すが、「万里」とは「万里の長城」でも使われているように「きわめて長い距離」を示す。その2割増しの「万二千余里」とは、「この世の果て」と同義なほど、想像もできないくらい「遙かに遠い」という意味であろう。
  「魏志倭人伝」で「万二千余里」と記載されている時点で、「測定不能」を意味している。
  さらには、「魏志倭人伝」の里数と日数の記載は、実は「陰陽五行説」による数字配分になっている事に気付く。
  陰陽五行説では、1・3・5・7・9 が「陽」。2・4・6・8 が「陰」。
 中国では「陽」の数字が好まれるのである。
  「魏志倭人伝」の記述は、七千里、千里、千里、千里、五百里、百里、百里。
  『漢書』「地理志(ちりし)」「五服」の記事にも同様の数字が並ぶ。
  場所についての記載は、著者が行った事がないので、他の国々と同様に「遠い」という意味の事を縁起の良い数字を並べて記載していた訳である。
  つまり、「魏志倭人伝」からは、邪馬台国の場所は特定できないのである。
  (松本清張著『邪馬台国』より)
 
3.「魏志倭人伝」の使い方/空間軸は疑わしいが。時間軸はほぼ正しい!
  中国の史書の参照については、もう一つの重要な事実がある。
 『明史』「日本伝」に次のような記載がある。
  「日本、故王有り。其の下の関白(かんぱく)と称する者。最も尊し。時に山城(やましろ)州の梁(かしら)信長を以て之と為す。偶々(たまたま)、猟に出て一人の樹下に臥せるに遇う。驚き起きて突き衝たる、執えて之を詰るに、自ら言いて平秀吉(たいらのひでよし)と為し、薩摩(さつま)州の人奴なりと。雄健蹻捷(ゆうけんきょうしょう=足が速く、すばしこい)にして。口弁(口が達者)有り。信長、之を悦び、馬を牧令(かわし)む。名づけて木下(きのした)の人と曰う」
 これに続いて、信長が明智光秀に殺され、秀吉が66州を征服して政権を掌握し、さらに「中国を侵略し朝鮮を滅ぼさんと欲す」と続くのである。
 『明史』は中国・清の時代、1679年に編纂が始まり1739年に完成した史書である。
  これによると、豊臣秀吉は尾張でなく、薩摩(九州)の家臣だった事、さらに織田信長はやはり尾張ではなく、山城(京都)の大名だったという事になる。
  大筋は正しい。しかし、詳細はかなり怪しいという事である。
  特に空間軸においてである。
  そもそも、大陸側で認識されていた日本列島の形が次の通りである。
混一疆理歴代国都之図
 これは、明の時代(1368~1644年)に朝鮮で作成された地図である。
 少なくとも、江戸時代に伊能忠敬(いのうただたか・1745~1818年)が「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成(正確には高橋景保(かげやす)が完成)して改めるまで、大陸では日本列島をこのような姿として認識していたという事である。
  もっと早くに、海外の史書は「空間軸は怪しい」という事に気付くべきであった。
  「魏志倭人伝」を元に、邪馬台国(やまたいこく)の場所は特定できない。
  「魏志倭人伝」の記載をまともに信じて、邪馬台国の場所を求めようとしても徒労に終わるという事である。
  今まで数多くの方が、膨大な時間と労力をつぎ込みながらも、未だに邪馬台国の謎を解き明かせなかった要因の一つである。
  とはいえ、「魏志倭人伝」のすべてがデタラメかというとそうではない。
 このような「魏志倭人伝」ではあるが、『明史』の豊臣秀吉の事例のように、ある程度は史実を反映しているのは確かである。
  特に、中国史と重なる部分、例えば邪馬台国の使者が中国を「たずねた」年やその様子、逆に中国からの使者が「たずねて来た」年や様子についてはほぼ真実に近いと思われる。
  帯方郡の使者が、伊都国に9年間滞在し、帰国後報告書を出したのは事実であろう。
  日本地図を作るのが仕事の目的ではなかったはずなので、あちこち計測して回ったとは考えられない。卑弥呼のいた邪馬台国の都には行っていないのも事実である。
  やはり、邪馬台国の場所・距離に関する記事は報告書に最初からなかったか、曖昧であった可能性が高い。
 現代でも、海外旅行や出張に行ったからといって、その国までの距離や位置を正確に報告できる人はまずいないであろう。だが、そこに行った時期、移動に要したおおよその時間、体験・見聞きして来た景色・文化・風習などは覚えているだろう。
 つまり、「魏志倭人伝」に書かれた、倭国の政治・外交・文化・経済など滞在中に伊都国で見聞きした記事や時期については、そこから真実が読み取れるものと思われる。
  また、、前述のジパングのように固有名詞等の発音については、注意が必要である事を踏まえた上で「魏志倭人伝」を参考にすることが重要である。
  「魏志倭人伝」など海外の史書は「空間軸は疑わしい」が「時間軸はほぼ信用できる」。また「文化・風習」も大筋参照できるといえそうである。
  つまり「魏志倭人伝」から「邪馬台国」が存在した時代とその様子(歴史)は確認できる。それらを元に、考古学や『記紀』の記載、伝承などを検証すれば、その当時の日本列島を統治していたのは誰かという事、またその都はどこだったかという事を解き明かすことができるのではないか。「魏志倭人伝」に記載がある「卑弥呼にあたる人物」と「邪馬台国にあたる国や首都」を特定できるものと思われる。
 年代については「中国史」とも重なるため、行き来した年などは事実であろう。
  よって「魏志倭人伝」に記載されている時代、つまり、230年頃に「邪馬台国」と表記された国が日本列島にあり、「卑弥呼」と記載された女王が統治していたということは事実であろう。
  当時の日本の国内事情を把握し、王は誰で、その都がどこにあったかを割り出せば、かなり高い確率で、その時の王(女王)が卑弥呼であり、そして台与(とよ)であると考えられ、彼女たちが住んでいた場所が、邪馬台国の都という事になる。
 
4.中国の史書が明かす/邪馬台国とはもともと大和国、つまりずっと「ヤマト」だった!
 実は、中国の史書『後漢書(ごかんじょ)』(成立は5世紀)によると、当時(5世紀)の日本「大和(やまと)」を指して「耶馬臺(やまと)国」と表記している事が確認できるのである。
  さらにそこには、南朝宋の笵曄(はんよう)によって、次のような注釈がつく。
  「按(あん)ずるに今、邪馬堆(やまたい)と名づくるは昔の訛(なま)りなり」
  「やまと」を「やまたい」と名付けたのは「昔の訛(なまり)」であると明かしているのだ!
  ここで重要なのは、『後漢書』編纂時(5世紀)、少なくとも当時の中国からは、邪馬台国=大和国と認識していたという事だ。
 実際、「魏志倭人伝」の表記は「邪馬台国」ではなく、正しくは「耶馬臺国」である。
 「臺」は中国の辞書によると数字の一の大文字(一的大写)、さらに形成文字との記載がある。「臺」を形成文字とする声符は【豆】になる。つまり読みは登と同じく【ト】になるが、形成文字は漢字の9割を占めるという。事実『古事記』ではヤマトの文字に「夜麻登」、つまり声符【豆】の「登」(ト)を当てている事が確認できる。
  卑弥呼の後継者、台与(とよ)の表記も正しくは「臺與」であり、こちらは既に、通説でも台与(とよ)、つまり「台」を「ト」と読んでいたのである。
  邪馬台国が滅んで大和になった等ではなく、そもそも、元来から「ヤマト」(大和国)だったという事である。これらの漢字も後世の当て字である。
 
5.『日本書紀』にあった邪馬台国の記載/『記紀』に隠された意図!
 『日本書紀』神功皇后紀(じんぐうこうごうき)に次のような記載がある。
  「明帝(みんてい)景初3年6月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし都に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む(引用「倭人伝」)」
  卑弥呼の鏡で有名な年号「景初3年」、また「倭の女王」、引用『倭人伝』という記述。
  つまり『日本書紀』編纂者は、「邪馬台国」を知っていたのである!
  加えて、定説では『記紀』に記載がないとされてきた「邪馬台国」や「卑弥呼」に関する「倭人伝」の記載が『日本書紀』に明記されていたという事実が確認される。
  神功皇后紀に「倭人伝」の一説を引用している事から、『日本書紀』の編纂者は、卑弥呼を神功皇后、そして神功皇后の時代を邪馬台国の時代と考えた。または、そのように解釈させようとしたという事である。
  にもかかわらず、『記紀』は「邪馬台国」の詳細について、一切明確な説明をしていない。
 
6.弥生時代後期/九州、出雲、大和は同一文化圏!
 「魏志倭人伝」で「邪馬台国」が存在したとされる3世紀(西暦230年頃)の日本列島は、古墳時代に入る直前の弥生時代最終期にあたる、といわれている。
  この時代の出土品で特徴的なものが「銅鐸(どうたく)」である。
  賀茂・三輪両氏が銅鐸の祭祀者であったという事は既に確認した。
  つまり、国津神(くにつかみ)系・出雲族とされる賀茂・三輪両氏と、「邪馬台国」は同時代に存在していたのである。
 「銅鐸」は、山の斜面に開口部を山頂に向けて、鰭(ひれ)を立てた状態で埋められている。さらに、大きさの異なる大中小(大小)の三つまたは二つの銅鐸を1セットとした「入れ子」状態にした形で発見されるケースが多い。
  また、銅鐸は「古い銅鐸」と「新しい銅鐸」という二つのタイプに大別される。かつては、「小さい銅鐸」と「大きい銅鐸」。最近は「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」とも分類される。
 さらに、この2種類の銅鐸出土地の分布を見ると面白い「相違」が見られる。「古い小さな聞く銅鐸」は島根県、そして香川県、徳島県、さらに和歌山県の北部から名古屋、そして福井県に囲まれた地域に分布している。
 それに対し、「新しい大きな見る銅鐸」の方は、静岡県・愛知県の2県、滋賀県、和歌山県・徳島県南部・高知県といった三つの地域の中に集中して分布しているのだ。先に銅鐸のなかった地域に「新しい大きな見る銅鐸」が広がっていく一方、それまでたくさんの銅鐸が分布していた地域には、「新しい大きな見る銅鐸」が入っていない。ほとんどの銅鐸出土地からはいずれか一方の同一タイプの銅鐸が集中して出土し、決して両方の銅鐸が出土しないという。
 ただ、滋賀県野洲市小篠原では「古い小さな聞く銅鐸」と「新しい大きな見る銅鐸」の両方が一緒に見つかったという。しかし他の地域では、こういう現象は起きていない。「古い小さな聞く銅鐸」が集中して見つかる場合は「古い小さな聞く銅鐸」ばかり、「新しい大きな見る銅鐸」が出土する場合は「新しい大きな見る銅鐸」ばかり出るという。
  前述の島根県荒神谷(こうじんだに)遺跡で出た銅鐸は「古い小さな聞く銅鐸」ばかり、島根県加茂岩倉(かもいわくら)遺跡から出た銅鐸もやはり「古い小さな聞く銅鐸」ばかりで、「新しい大きな見る銅鐸」は一つも含まれていない。
  そして、大和からも出雲と同じ「古い小さな聞く銅鐸」が集中して出土している。
 つまり、少なくとも出雲と大和は同一文化圏であったという事だ。さらに、「古い小さな聞く銅鐸」が、「新しい大きな見る銅鐸」に途中で切り替わっていないという事は、弥生の古い時期から弥生最終期までこの勢力は変わらず存在していたという事が考古学から導き出す事ができる。
  このように銅鐸文化圏をより狭域に絞っても、邪馬台国時代も、少なくとも出雲と大和の地は同一勢力圏であったという事である。
  文献や神話、神社伝承で伝わる、スサノオが出雲を開き、子の大国主(おおくにぬし)が国を造り、そしてさらに子孫の大物主(おおものぬし)が大和を造ったという物語りと歴史の一致が見られるわけである。
  そして、出雲は九州の文化も併せ持っていたという事にも既に触れた通りである。
  後は、もともと同一文化圏だった出雲・大和・九州と邪馬台国は、変わらず同じ勢力だったのか、それとも何か変化が起こり別の勢力に移ったのか。また別の勢力の場合、双方は共存していたのか、それとも敵対していたのかという点が次の問題である。
 
7.九州説と大和説双方の首都候補地の地名は「ミワ」/どちらも三輪・賀茂一族の文化圏!
 諸説ある邪馬台国論には、銅鐸文化を邪馬台国が滅ぼし、古墳時代を築いたという説もある。さらに邪馬台国が大和朝廷、天皇家に受け継がれたという説もある。また邪馬台国を天皇家が滅ぼしたとする説もある。
  これせは確かに、大国主(おおくにぬし)が国を譲ったという、『記紀』の記載にも符合する。
  しかし、それらがもし事実であったならば、わざわざその事を『記紀』が隠す必要があったのであろうか。
  前王朝を悪役にして、それを倒した新王朝の正当性を主張する方が、むしろ自然ではないだろうか。
  事実、『記紀』に記載がある「神武東征」の話にも、「土蜘蛛(つちぐも)」など、先住民を滅ぼした話がある。スサノオ自身もヤマタノオロチを退治し、クシナダヒメを救っている。
  それらと同様に『記紀』の中で銅鐸文化圏の王朝を悪役にした、それを「正義」の新王朝が成敗したという話の方が都合が良いはずである。
 それにもかかわらず、『記紀』には銅鐸文化や邪馬台国の明確な記載はなく、既に忘れ去られたことになっている。しかし、『記紀』は、初代・神武天皇の即位を紀元前660年としていることから、紀元前後に存在した邪馬台国や銅鐸文化は同一時間軸内で扱わなければならない重要案件である。にもかかわらず『記紀』は沈黙を守る。
 『記紀』は、出雲の王族は国津神(くにつかみ)として、一応神として扱っている。それどころか、スサノオ自身、天照大神(あまてらすおおかみ)の弟神として、また天照大神と共に「三貴神」として崇められている。さらには、前述のように、初代神武天皇以降、代々皇后を出していると言う事が、出雲王朝を貶(おとし)めているはずの『記紀』にも明記されているいるのである。
  これらの文献や、前述の考古学的な見地から、「出雲・邪馬台国・大和・大和王朝と天皇家の間に断絶はなく、継続した王朝だった」とはいえるのではないか。
  少なくとも、「出雲・邪馬台国と天皇家の間には深い関係があった」「ただし、『記紀』編纂の頃までに、その事実を明記できない何らかの事情が生じた」と読み取るのが自然ではないだろうか。
 少なくとも、邪馬台国の時代までに、出雲族といわれた大国主の勢力圏は、少なくとも列島では、東は伊勢(北は越後)から西は北九州にまで及んでいた。
 邪馬台国近畿説、九州説と決着していないが、要は、邪馬台国が存在したとされる3世紀より前から、近畿も九州も同一勢力圏内にあったという事である。
  近畿説・九州説の邪馬台国の首都候補地として、有力なのが、次の二つである。近畿説代表、大和・三輪(奈良県)。九州説代表、甘木(現朝倉市・福岡県)。地図の地名・神社名は市町村統廃合前のものである。
  しかし、それぞれの地図を見れば一目瞭然である。
  双方とも中心部に「大神(おおみわ)神社」、「大三輪(おおみわ)神社」と表記こそ違うが、「オオミワ神社」が存在し、同様の地名など複数の符号が確認される。漢字伝来以前の地名・人名は漢字の意味よりも、音を優先しなければならない点は前述の通りである。
  邪馬台国時代以前も邪馬台国時代も、そして邪馬台国時代以降も、変わらず存在したものと考えられる。
 出雲族といわれてきた、スサノオ~オオタタネコを共通の祖とする三輪・賀茂両氏が、邪馬台国そのものに深く関わっているという事である。
  大和か九州の二者択一論ではなく、「双方とも邪馬台国であったのだ」。
  論じるなら、『邪馬台国はどこにあったのかではなく、卑弥呼がいた「都」はどこにあったか、そして片方は「魏志倭人伝」にも記載がある「一大卒(後の太宰府のような出先機関)」の一つであった可能性が残る』という事である。
  事実、甘木(九州)は、後の「太宰府」に隣接する地である。
 さらなる究明のためには、卑弥呼の時代つまり西暦230年頃の首都はどこだったかという事、さらには卑弥呼の墓を探り出す事が重要となる。
 
8.邪馬台国は間違いなく弥生後期「銅鐸時代」から古墳時代初期「前方後円墳」の時代にかけて存在していた!
 「銅鐸」の消滅と共に新しく現れるのが、「前方後円墳」である。
  「前方後円墳」というのも後世につけられた名称である。この不思議な響きを持つ呼称は、江戸時代の学者で、寛政三奇人の一人、蒲生君平(がもうくんぺい)に由来する。「がもう」から推測できるように、蒲生氏も賀茂氏だという説もある。蒲生君平は、各地の山稜(天皇陵)を訪ね歩き、その見聞を『山陵志(さんりょうし)』にまとめた。その君平の「前方後円」という認識が明治時代にも受け継がれ「前方後円墳」という用語が定着する。
 君平自身、『山陵志』の中で「宮車(みやぐるま)」の形とも記載しているのであるが、その後「楯(たて)の形」とする説、そして最近では「壷(つぼ)の形」とする説も出ている。
  学会では、日本列島で「前方後円墳」が発生する「古墳時代」は、弥生時代が終焉した直後に新たな始まったとされてきた。
  しかしそれは、弥生時代の代表的な出土品である「銅鐸」が消滅する事で「弥生時代」は終焉したと、学会が結論付けてしまった事による。
  そして、銅鐸が消滅し、直後に登場してきた前方後円墳の時代を、新たに「古墳時代」として設定したのである。
  かつての学説では、このような後付けの取り決めによって、邪馬台国は弥生時代の最終期に存在した国家であっとされていたため「前方後円墳は邪馬台国のものではない」という結論に至っていたのである。
  しかし、最近になって通説が大きく覆された。
  最新の考古学調査の結果、古墳時代が約50年前倒しになるというのである。それにより、邪馬台国は、通説が棲み分けしていた「弥生時代後期」から「古墳時代初期」にすっぽりとはまり込む事になった。
  つまり、邪馬台国は、弥生時代後期とされた銅鐸の時代から、古墳時代初期とされた前方後円墳の時代にまたがって存在したという事になる。
 古墳の年代を決める大きな要素は、古墳の形態、石室の形態、棺の形状、石室や周辺からの出土物である。
  邪馬台国と関係がある可能性を示す古墳、つまり3世紀から4世紀前半の古墳の場合、大方次の特徴があるという。
  古墳は前方後円墳か円墳で、石室は竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)、棺は箱式石棺(はこしきせっかん)か割竹形木棺で(わりたけがたもっかん)で、出土品、特に土器でいえば、弥生式第5様式~庄内式・布留式(ふるしき)―この間に纏向(まきむく)1式~5式まである―に該当する。
  古墳の年代を割り出すには、「土器編年法(どきへんねんほう)」がかなりの影響力をもっていた。しかしこれは学者によって編年にばらつきがある。そして、このばらつきが古墳編年そのものに影響するのである。邪馬台国の女王・卑弥呼またはその後継者である台与(とよ)の墓という伝承があり、戦前までは卑弥呼の墓といわれてきた「箸墓(はしはか)古墳」についても、その編年には諸説あるという。

 

 白石太一郎氏は3世紀後半、石野博信氏や川上邦彦氏は3世紀後半から4世紀初頭、関川尚巧(ひさよし)氏は4世紀前半としている。
  要は白石説をとれば、「土器編年法」を用いても、箸墓古墳は邪馬台国時代の古墳であると判定されるという。
  こくのように、そもそも曖昧だったにもかかわらず、弥生時代後期の邪馬台国と、古墳時代を明確に分けたのは、ある権威ある学者の説を踏襲したからに他ならない。
  ピラミッド型のかつての学会で生き残るため、「邪馬台国は古墳時代にあってはならない」とされたのだ。
  さらには、近畿説・九州説と結論が出せないのは、東大と京大の学閥争いによるものである。つまり片方が主張すると相手方が反論し、お互いに譲らないのが最大の原因である。残念ながら、本来の真理の追究よりも自説の固持、つまりメンツや利権が優先になってしまっているように見える。
  これらの状況は、考古学会のみならず、この国の姿を露呈しているようにさえ思える。しかし、これらの状況はなにも日本だけの事ではなく、欧米においても同じようだ。あの世界的ベストセラー『神々の指紋』の著者グラハム・ハンコック氏も著書の冒頭で嘆いている。グラハム・ハンコック氏は考古学者でも歴史学者でもなくジャーナリストであった。学会に関係のない自由な立場であったからこそ、あの結論を導き出し、発表することができたのだと自ら語っている。
  ただ、学界の権威にせよ、学会そのものにせよ、基本的には真摯に研究してきた結果であれば、決して責められるものではない。ただ、大切なことは、まちがいに気付いたら素直にそれを認め、本来の目的遂行や、真理の追究、学問の発展のために尽力する事である。
  自説や権威にしがみつくために、本来の目的遂行の妨害をするのは本末転倒であり、その点は悔い改め、学問を始めた頃の純粋な精神を取り戻して欲しいと願うばかりである。
  そのようなしがらみのない自由な立場で、最近の研究成果を元に、公正・中立に研究すると「邪馬台国は、かつての学会がいう弥生時代後期の銅鐸時代から古墳時代初期の前方後円墳が出現する頃にまたがって、確かに存在した」という事が判明する。

 
9.やはり箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓だった!
 『週刊読売』2000年1月23日号に、『ハイテク測定法で「邪馬台国論争」に決着・女王卑弥呼の墓は、奈良「箸墓古墳」だった』という次のような記事が掲載された。
  “邪馬台国はどこにあったのか。そして女王・卑弥呼はどこに眠っているのか。
  西暦2000年を迎え、古代史最大のミステリーに解決の時が近づいた。江戸時代の儒学者・新井白石から始まった『畿内か、九州か』の所在地論争は過去のものとなり、最後の焦点は、考古学ばかりかハイテクも動員しての卑弥呼の墓の特定となった。”
  という書き出しで始まるこの記事によると、「年輪年代法(ねんりんねんだいほう)というハイテク測定法を使用し測定した結果、以前から「女王・卑弥呼の墓」とされながらも、それまでの考古学、つまり、前述の曖昧な「土器編年法(どきへんねんほう)」や学界の事情によって、邪馬台国時代ではなく、古墳時代のものとされていた「箸墓古墳」(奈良県桜井市)が、邪馬台国時代のものであった、と断定されたというのである。
  「年輪年代法」というのは、次のようなものだ。
 樹木には、1年ごとに成長の記録・年輪が刻まれる。この年輪の幅は年ごとの気象条件によって微妙に異なってくる。これを克明にグラフ化することで「年輪のものさし」ができあがる。折れ線グラフが描く微妙な曲線が「年輪パターン」であり、日本では北海道をのぞくほとんどの地域の樹木が共通のパターンをえがいているという。
 つまり、ある程度の年輪層を持つ樹木であれば、「年輪のものさし」のどこかにその樹木のパターンが当てはまり、「その樹木が伐採(ばっさい)された年がわかる」というのである。
  当時、奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター古環境研究室長だった、光谷拓実氏の20年の研究成果である。
 
 この「年輪年代法」が考古学界に大きな衝撃を与えたのは、1996年の事であった。
 全国屈指の弥生環濠(かんごう)集落・池上曽根(いけがみそね)遺跡(大阪府和泉市)中心部の大型建物「神殿」跡から発掘されたヒノキの柱が、光谷氏の調査により、紀元前52年に伐採された木であると断定された。伐採した木を長期間そのまま寝かせておくことは考えにくいので、当然、その建物の建造時期も、ほぼ、その伐採時期に重なるわけである。
 考古学者たちが驚いたのは、この遺跡から同時に出土した土器片が、弥生時代中期のものだったことだ。つまり、弥生時代の土器を時系列に約600年分を整理して、その移り変わりを目安にした「土器編年法」による「土器のものさし」で測れば、この建物の年代は西暦50年と判断されていたのが、従来の考古学の常識だったからである。
 従来の考古学の「土器編年法」自体に大きな狂いがあった事が明確になったのである。
  そもそも、土器編年法自体、学者によって諸説があり、確定的ではなかったという事実については先に触れたとおりである。
  さらに、かつては、土器によって、縄文・弥生と時代を分けていたが、縄文と弥生は重なって共存していて事も既に確認されている。
 
 
      
 
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