近畿朝倉会 第5回歴史ウォーク
天智天皇の大津京を訪ねて
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場 所 : 滋賀県大津市
日 時 : 2013年5月18日(土曜)
集 合 : AM10:00 京阪電車「三条京阪駅」下車 高山彦九郎像の前
経 路 : 各自お調べ下さい。
持 参 : 弁当・水筒・替え着・雨具・その他
行 程 : 「京阪三条駅」=(京都市営地下鉄)=「みささぎ駅」− 天智天皇陵 −「みささぎ駅」− 「山科駅」 − 山階寺跡
− 「山科駅」=
(京阪石山坂本線)=「別所駅」− 大津市歴史博物館(昼食?) −
弘文天皇陵 −
皇子が丘公園(昼食?)−近江大津宮錦織遺跡 −皇子山古墳
−近江神宮−近江神宮駅=(京阪石山坂本線・京都市営地下鉄)京阪三条駅
概 要 : 白村江の戦いに敗れた天智天皇は、唐の来襲を恐れて奈良から大津へ遷都する。大津京の全貌は未だ明らかになっていないが、天智天皇陵・弘文天皇陵を訪ねて、
大津に残る都の面影を偲び、皇子山古墳、山階寺跡、等々を訪ねて歩く。
解 説 :

今日の例会は、遺跡が京都地下鉄と京阪石山坂本線に沿って点在しているので、電車と徒歩を組併せた例会となります。三条から電車に乗って御陵(みささぎ)で降り、山階まで歩いてまた電車に乗り、別所まで電車。そこで幾つか見学してまた電車に乗り、神宮前でおりる。時間があればそこから南滋賀まで歩きまた電車に乗って滋賀里へというコースです。
集合・京阪三条駅前・高山彦九郎像前
三条京阪(京都市)にある高山彦九郎の銅像は伊藤五百亀作と伝わる。高山
彦九郎(たかやまひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日)は、江戸時代後期の尊皇思想家。父は高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも後にさき。子に高山義介ほか娘など。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人。名は正之。上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田十六騎の一人である高山重栄とされている。

三条京阪(京都市)にある高山彦九郎の銅像は伊藤五百亀作と伝わる。高山
彦九郎(たかやまひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日)は、江戸時代後期の尊皇思想家。父は高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも後にさき。子に高山義介ほか娘など。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人。名は正之。上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身で、新田十六騎の一人である高山重栄とされている。
13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説く。尊号一件と呼ばれる事件に遭遇し、公家中山愛親の知遇を得た事が老中の松平定信など幕府の警戒を呼ぶ。1791年(寛政3年)には九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとするが退けられ、一時は豊後国日田において捕縛される。その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。享年46。多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物でもある。
京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の銅像がある。墓は福岡県久留米市の自刃の地から約400m離れた、久留米市寺町の光明山遍照院にある。群馬県太田市に彼を祀っている高山神社が建てられている。
第38代 天智天皇陵 山科陵(やましなのみささぎ)
三条前から京都市営地下鉄東西線に乗って「御陵(みささぎ)」駅で降りる。ここから歩いて5,6分で天智天皇陵だ。天智天皇陵のそばに日時計が設置してある。日本初の時計(水時計)を作ったという天智天皇にちなんだものと思われる。ここから陵前の鳥居までは、結構長い林の参道が続いている。歩くうちに廻りの喧噪がかき消えてしまい静かな空間になっていく。
異名: 天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)、
近江大津宮天皇(おうみおおつのみやのすめらみこと)、
葛城皇子(かつらぎのおうじ)、開別(ひらかすわけ)皇子、
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
生没年: 推古34年(626)〜 天智天皇10年(671)(46歳
)
在位: 天智7年(668) 〜 天智天皇10年(671)
父: 舒明天皇(田村皇子)第1皇子
母: 皇極天皇、斉明天皇(宝皇女)
皇后: 倭姫(やまとのひめ:古人大兄皇子の娘)
皇妃: 遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)、橘娘(たちばなのいらつめ)、
常陸娘(ひたちのいらつめ)、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、
道君伊羅都売(みちのきみいらつめ)、伊賀采女宅子娘
(いがのうねめやかこのいらつめ)
皇女子: 建皇子(たけるのみこ)、大田(おおた)皇女、
鵜野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)、
・・・ 以上母は遠智娘
御名部(みなべ)皇女、阿閉(あへ)皇女(元明天皇) ・・・ 以上母は姪娘
飛鳥(あすか)皇女、新田部(にいたべ)皇女 ・・・ 以上母は橘娘
山辺(やまのべ)皇女 ・・・ 母は常陸娘
川島(かわしま)皇子、大江(おおえ)皇女、泉(いずみ)皇女
・・・・ 以上は母は色夫古娘
施基(しき)皇子 ・・・ 母は道君伊羅都売
伊賀(いがの)皇子(大友皇子:弘文天皇) ・・・ 母は伊賀采女宅子娘
宮居:
志賀大津宮(しがのおおつのみや:滋賀県大津市南滋賀町)
御陵: 山科陵(やましなのみささぎ:京都市東山区山科御陵上)
この天皇は有名人である。エピソードには事欠かない。大海人皇子は同母弟、間人皇女
(孝徳天皇皇后)は同母妹。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)時代には中臣鎌子(藤原鎌足)と謀って有名な「大化の改新」を断行し、蘇我一族による政権を打倒した。日本最初の全国的な戸籍を作り(庚午年籍:こうごねんじゃく)、班田収受の法を実施するなど、朝廷による中央集権の体制を確立した事でも有名。弟の大海人皇子(おおあまのおうじ:のち天武天皇)と額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐっての恋の駆け引きもなかなか味わい深いものがある。
中大兄皇子は、
「大化改新」後もなかなか即位しない。父の舒明天皇時代は蘇我蝦夷・入鹿全盛時代であったから皇子の意見など通るべくもないが、父の死後まだ
16才だったので、母の宝姫皇女(たからのひめみこ)が皇極天皇として即位する。しかし入鹿がいる限り、蘇我氏の血を引いていない皇子は永久に天皇にはなれない。そこで入鹿暗殺という事になるのだが、「大化改新」を起こした後皇極天皇は中大兄皇子に即位を促すが、皇子らは叔父(皇極帝の弟)の軽皇子(かるのみこ)を孝徳天皇として即位させる。しかし孝徳帝は結局、中大兄皇子、中臣鎌子らの傀儡でしかなかった。政変後即位した孝徳天皇の御代、次代の斉明天皇の御代それぞれ皇太子となり、国政に携わる。大化元年9月、吉野に出家していた古人大兄皇子(舒明天皇の第1皇子)謀反の密告をもとに、中大兄皇子は兵を差し向け古人大兄皇子を殺害する。
孝徳帝崩御後もまだ中大兄皇子は即位しない。しかたなく母の皇極女帝が再び即位する。重祚(ちょうそ)である。皇極女帝は斉明天皇となる。歴史上始めての重祚であった。孝徳天皇崩御後、孝徳天皇の遺児有間皇子を謀反のかどで処刑するなど、皇太子のまま実権を握っていた。その後朝鮮半島では新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、天皇・中大兄皇子らは飛鳥を離れ九州に赴く。
筑紫(福岡県)の朝倉の地に、橘広庭宮(たちばなのひろにわのみや)を仮宮として建設し、ここで百済救済の陣頭指揮にあたるが
斉明天皇はここで崩御する。急死であったため朝倉の地に葬られたが、入鹿の怨霊が大鬼となって女帝の葬列を山の端から眺めたとか、鬼火が宮廷の廻りを飛び交ったとかいう伝説が残っている。推定地はあるが、この橘広庭宮の跡も斉明天皇の墓も未だ確定してはいない。斉明天皇の崩御(660年)直
後、白村江(はくすきのえ)で日本軍は唐・新羅連合軍に敗退し、ここに百済は滅亡した。中大兄皇子は敗戦の将兵・百済からの亡命者等々を引き連れて飛鳥へ引き上げるが、百済からの逃亡者はその後も大挙して日本に亡命し、大量の帰化人を生んだ。
朝廷はその後連合軍の上陸を恐れ、筑紫に防人を配置し、太宰府を守るため1キロに渡る水城(みずき)を築く。母斉明天皇の死に伴い、中大兄皇子は称制(天皇に代わって臨時に国政を行う事)し、6年間天皇不在の時代が続く。天智6年(668)正式に即位し、その後住み慣れた飛鳥をでて近江に遷都する。ここでやっと「天智天皇」となるのである。斉明天皇が朝倉で崩御して6年後の事であった。皇子はすでに43才になっていた。近江国大津(滋賀県)で、近江令(おうみりょう 法令)の制定等を行った。
同母弟で、皇位継承の最有力候補で、一旦立太子されていた
大海人皇子(後の天武天皇)は、次々と皇位継承者を謀殺して行く天智天皇を怖れ、天智天皇から皇位の打診があった際これを断り、自ら剃髪して吉野に出家する。そこで天智天皇は、長子の大友皇子(後の弘文天皇)を後継に擁立して、大海人皇子の出家から2ケ月後、即位から3年で近江に崩御した。
46才。
平安時代末期、僧皇円によって書かれた『扶桑略記』では、「一云」として、天智天皇が馬に乗って山科の里へ遠出し帰ってこず、数日後履(は)いていた沓が見つかった。その沓の落ちていた所を御陵としたという。この記事を持って、天智天皇の死は暗殺ではないかというような説もあるようだ。近年、乙巳の変(大化改新)の主導者を、中大兄でなく軽皇子(孝徳天皇)だったとする説が提出され、注目された。中臣鎌足は軽皇子と結びついていたというが、例によって「真相は闇の中」である(遠山美都男『大化改新』など)。
日本書紀には、「天智陵」について記載はない。しかし万葉集に「山科の鏡の山」に御陵を築いた記述が見える。また「延喜諸陵式」に「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」とあり、山科山陵を墓所とするとある。また天平九年成立の「大安寺伽藍縁起併流記資財帳」によれば、倭姫大后が「仲天皇」と称されており、天智崩後、倭姫大后が中継天皇として即位した可能性もある。
天智陵は考古学的には「御廟野古墳」と呼ばれている。山科盆地北辺の南向きのゆるやかな傾斜面に位置し、古墳時代終末期の古墳だ。上円下方墳といわれるが、正しくは上円部は八角形をなしている。下方部は二段築成で、上段は一辺46m、下段は一辺70m。但し下段は南側のみが造成されている。また上段、下段とも石列がある。正面には「沓石」と呼ばれる約2×3mの平坦な切石がある。宮内庁比定の天皇陵の中でも、ここは衆目が一致する「天智天皇陵」である。

山階廃寺跡 (やましなはいじあと)

この石標は,藤原鎌足によって創建された山階寺の地を示すものである。山階寺については,石標の横に設置された解説パネルに最新の研究成果が記されている。
山階寺跡推定地
山階寺は七世紀後半、藤原鎌足により創建された寺院。中大兄皇子(天智天皇)と共に大化改新を成し遂
げた鎌足の「山階陶原家付属の持仏堂」が始まりと推定される。 奈良時代の興福寺に関する史料(『興福寺流記』所引「宝字記」)には、「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・天王像を造ることを発願した。事が成就し
た後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、 妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と記されている。その所在地は大宅廃寺説や中臣遺跡説もあるが、山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である。付近から有力な遺跡は見つかっていないが、この辺りは大槻里と呼ばれ、西隣の陶田里にかけてが陶原であったらしい。鎌足の子の不比等が育った「山科の田辺史大隅らの家」も近くにあった。山科寺はその後、大和に移り厩坂寺と呼ばれ、更に平城京に移り興福寺となる。このため興福寺は山階寺とも呼ばれた。天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖となる鎌足は、山階と深い関係があったのである。
新羅善神堂 (しんらぜんしんどう)
京阪石山坂本線別所駅から西へ5分。弘文天皇陵のすぐ横にある。祭神は「新羅明神」だそうだがよくわからん。由緒によれば、園城寺開祖の智証大師円珍が唐から帰朝の時、船中にあらわれた新羅の国神を祀ったと言う。後に源頼義の新羅明神への祈願から、源氏と園城寺の深い関係ができ、源頼義が東北の安倍頼時を攻めるに当たって、新羅明神に詣でて戦勝を祈ったとの記録がある。その子義光も新羅明神の前で元服し、新羅三郎義光と名乗った。新羅三郎義光は後に関東に下り、甲斐源氏の祖となり、武田につながるといわれるが、ここから博物館へ向かう背後の山のなかに墓があるのはどうしてだろうか。神仏図絵という古絵図には、新羅明神について「素盞嗚尊皇子なり母は稲田姫尊、五十猛尊紀州名草の社、近江国新羅大明神是なり」と記されているそうで、このあたりもよくわからん。貞観2年(806年)に作られたといわれる、本堂内の檜一本造「新羅明神坐像」は国宝である(と書いてある、見たわけでは無い)。新羅善神堂から石段を降りて、広い原生林のような林を抜けて鳥居まで来ると、車道を挟んですぐ前が大津市歴史博物館、「弘文天皇陵」である。
大津市歴史博物館

「大津」の語源は読んで字のごとく、大きな津である。つまり大きな入り江、船着き場、溜まり場、港なのだ。琵琶湖とともに歩んできた街だ。南北に長く、海(湖)と山との間が僅かしかないところは神戸に似ていなくもない。古代からこの街は色々と歴史に登場しているが、極めつけは何と言っても「近江京」である。現滋賀県大津市には、天智天皇の「近江大津宮」の跡地と見られる「錦織遺跡」がある。奈良・飛鳥から遷都された大津京跡とされている。
昭和58年、宮の中心となる内裏正殿の建物跡が検出され、長い間謎だった幻の大津宮の位置が明らかになった。宮に関する遺構としては、巨大な柱穴を持つ建物跡、柵、門、回廊、宮内を仕切る大垣、倉庫群、石敷溝が見つかっている。
第39代弘文(こうぶん)天皇

別名: 伊賀皇子(いがのおうじ)、大友皇子(おうとものおうじ)
生没年: 大化4年(648)〜 天智天皇11年(672)(24歳)
在位: 天智10年(671) 〜 天智天皇11年(672)
父: 天智天皇
母: 伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)
皇后: 十市皇女(とおちのひめみこ:大海人皇子と額田王との間の皇女。大友皇子のいとこ。)
皇女子: 葛野皇子(かどのおうじ)、与多王(よたのみこ)
宮居:
志賀大津宮(しがのおおつのみや:滋賀県大津市南滋賀町)
御陵: 長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ:滋賀県大津市御陵町)
弘文(こうぶん)天皇は
天智天皇の第一子で、大友皇子(おおとものおうじ)としての名の方が知られている。天智の死後、吉野に隠遁していた大海人皇子(おおあまのおうじ)の起こした
「壬申の乱」(じんしんのらん)に破れて自害した。「日本書紀」は弘文天皇が即位したとは記録していないが、
明治になって歴代天皇に加えられた。
日本書紀では、大友皇子が即位したとは見なしていないようである。弘文天皇記の段は存在しない。一代として認めていないのだ。日本書紀を編纂したのは大海人皇子(天武天皇)の皇子舎人親王である。従って、父が、即位した天皇から皇位を簒奪(さんだつ)したとはとても書けなかったのだろうと推察される。
明治期になるまで、大友皇子は日本書紀に即位の記事がないという事で、天皇とは見なされていなかった。しかし記事が無いからと言って即位していないとは言えない、むしろ即位したのに舎人親王らが覆い隠したのだと江戸時代の国学者伴信友(ばんのぶとも)は主張し、水戸藩が編纂した「大日本史」も同様の説を掲げた。
幕末から明治にかけての国学高揚の気を受けて、明治政府は明治三年、大友皇子に「弘文天皇」という諡(おくり名)を与え、
1200年ぶりに第39代天皇と認定した。東京の国立公文書館に行くと、「弘文天皇」を皇統に加えてもよいかという明治天皇へのお伺い書が展示してある。これで大友皇子は「天皇」となった。
「壬申の乱」は皇位をめぐる我が国古代最大の内乱である。琵琶湖を中心に重臣・周辺豪族・国司・郡司らが大友派と大海人派に別れて争った。この内乱については昔から論評されており、それによれば乱の原因としては、
(1).政治方針の対立、
(2).中大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)兄弟の確執、
(3).近江遷都に端を発した豪族達の不満が爆発、
(4).大友皇子(弘文)の勇み足等々
が挙げられる。この乱をどう評価するかは、その前後の天智・天武の両朝をどう評価するかという事とも関係がある。
(1).(3).は、急激な天智天皇の改革に反対する豪族が、白村江に敗北して基盤のゆるんだ近江朝を打倒しようと大海人皇子を擁立したというもので、(2).は、額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐる確執が皇位継承問題で火がつき、天智の死で一挙に燃え上がったとする。(4).は、大友皇子が叔父の大海人皇子を警戒するあまりやらずもがなの抑圧を図って、返って大海人皇子の暴発を招いたというものである。(詳細はHP「邪馬台国大研究」の天皇陵巡りを。)
皇子山古墳

小高い丘の頂上と中腹に古墳がある。2,3分で頂上だが、頂上の古墳は葺石を並べて復元してある。頂上からは琵琶湖の南西側が一望できる。素晴らしい眺望に、皆しばし心の洗濯。権力というものはほんとにすごい。死してなおこれだけのものを造らせる。被葬者は渡来人との説が有力。ほんとに弥生時代に築造されたのならすごい事になる。九州は甕棺だったのに、近江では既に古墳があった事になるのだ。
近江大津宮錦織遺跡
現滋賀県大津市には、天智天皇の「近江大津宮」の跡地と見られる「錦織遺跡」がある。奈良・飛鳥から遷都された大津京跡とされている。 昭和58年、宮の中心となる内裏正殿の建物跡が検出され、長い間謎だった幻の大津宮の位置が明らかになった。宮に関する遺構としては、巨大な柱穴を持つ建物跡、柵、門、回廊、宮内を仕切る大垣、倉庫群、石敷溝が見つかっている。

大津宮(近江宮、近江大津宮などとも言う)をめぐっての謎は3つあった。
一つはその位置である。説明板にもあるように、かって大津宮の候補地は、錦織、南志賀、滋賀里の3ケ所だったが
1979年の発掘調査で錦織地区に大規模な建物跡が発見され、ここが大津宮であった事がほぼ確定した。この地は、古来からの言い伝えにより大津の宮であるとされ、「志賀皇宮遺跡」という石塔と石碑が建てられていた。石碑はもう字がかすれて殆ど読めないが、「言い伝えによりここに大津宮があったので記念碑を建てる」、というような事が書かれている(らしい)。発掘によりその事が証明されたわけで、「伝承」は結構真実を含んでいるという好例である。宮の全体像は、ご覧頂いたように廻りを住宅地に囲まれており、当分の間判明しそうにはない。
謎の
2つ目は「京」の問題である。果たして「近江京」と呼べるような都が存在していたかどうか。これについてもいろんな議論があるが、大津市は既に市街地化が完了しており大規模な発掘などはしばらく実行できそうにない。従ってこれまた当分の間論議は続くであろう。
3つ目の謎は
「遷都」の目的である。なぜ天智天皇(中大兄皇子)は、都を突然奈良から移したのか。1つの説は、白村江の戦いに敗れた朝廷が、唐・新羅軍の日本上陸におびえ、大和盆地よりも有利な琵琶湖畔に要塞都市を築こうとした、というもの。確かに、筑紫に大規模な水城や山城を築いた防御態勢を見ると分からなくもないが、なぜ近江なのだという疑問は残る。近畿まで攻め入られたら大和盆地であろうが近江であろうが、さして変わりはないような気もする。2つ目の説は、律令国家の邁進に燃える天智が、新たな国家の為に全く新しい新天地を求め、それが近江だったというもの。さらに幾つかの説があり、我が子「大友皇子」は琵琶湖畔に住む「大友氏」に養育を任せており、我が子の即位のためにその地に都を造った、という説もある。いずれも論者による古代観の違いに基づくので、まだまだ「遷都」をめぐる論争は続きそうである。
私はこう考えている。斉明天皇が飛鳥にいた時点、あるいはそのもっと前から、近江には有力な渡来人あるいは豪族がいて、その集団は中大兄皇子に肩入れしていたのではないか。天智は、白村江の戦いに敗れて筑紫から大和へ戻ってくるとき、大勢の百済の亡命者達を引き連れて来ている。そしてその亡命者達は多くが琵琶湖の南側に居住したと考えられる。それはずっと以前からそこが「同郷」のムラだったからではないだろうか。その為天智は「大友皇子」も彼らに養育させ、自らもその地に移って新たな国家を建設しようとしていたのではないだろうか。時代をのぼって「継体天皇」の即位を考えてみても、彼を後押しする集団は北河内・淀川水系の豪族達だった事は明白である。その援護で20年後に奈良を平定する。同様に天智も、肩入れしてくれる集団への見返りとして近江に都を定めたような気がする。近江に遷都してわずか5年で天智天皇はみまかり「壬申の乱」に発展するが、もし天智があと20年生きて「近江京」を本格的に整備できていたら、今の日本の首都は滋賀県だったかも知れない。
いわゆる飛鳥時代の都
NO |
宮の名前
|
移った年
|
住んだ天皇
|
宮の場所
|
1 |
豊浦(とゆら)宮 |
592
|
推古 |
飛鳥 |
2 |
小墾田(おはりだ)宮 |
603
|
推古 |
飛鳥 |
3 |
飛鳥岡本宮 |
630
|
欽明 |
飛鳥 |
4 |
田中宮 |
636
|
欽明 |
飛鳥 |
5 |
厩坂(うまやさか)宮 |
640
|
欽明 |
飛鳥 |
6 |
百済(くだら)宮 |
640
|
欽明 |
飛鳥 |
7 |
飛鳥板蓋(いたぶき)宮 |
643
|
皇極 |
飛鳥 |
8 |
難波長柄豊崎(ながらとよさき)宮 |
645
|
孝徳 |
難波 |
9 |
飛鳥板蓋宮 |
655
|
斉明 |
飛鳥 |
10
|
飛鳥川原宮 |
655
|
斉明 |
飛鳥 |
11
|
後(のちの)飛鳥岡本宮 |
656
|
斉明 |
飛鳥 |
12 |
朝倉橘広庭宮 |
661 |
斉明 |
福岡県朝倉市 |
13
|
近江大津宮 |
667
|
天智 |
近江 |
14
|
嶋宮 |
672
|
天武 |
飛鳥 |
15
|
飛鳥岡本宮 |
672
|
天武 |
飛鳥 |
16
|
飛鳥浄御原(きよみがはら)宮 |
672
|
天武 |
飛鳥 |
17
|
藤原宮 |
694
|
持統
文武
元明 |
飛鳥 |
18
|
平城宮 |
710
|
元明 |
奈良 |
近江神社 出典:ウィキペディア


近江神宮(おうみじんぐう)は、滋賀県大津市に鎮座する神社。皇紀2600年を記念して同年に相当する昭和15年(1940年)に創祀された。天智天皇7年(667年)に同天皇が当地に近江京を営み、飛鳥から遷都とした由緒に因み、同天皇を祭神として創祀された。天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を設置した歴史から境内には各地の時計業者が寄進した日時計や漏刻などを飾ってあり時計館宝物館が併設されている。また、『小倉百人一首』の第1首目の歌を詠んだ天智天皇にちなみ、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月に行われている。社殿は「近江造」と呼ばれる独特のもので、国の登録有形文化財に登録されている。
